秒速30万キロの恋

 

 

光が伝播する速さは299792458 m/s(≒30万キロメートル毎秒)と定義されている。光速は、宇宙における最大速度であり、時間と空間の基準となる物理学における特別な意味を持つ値でもあるのだ 「はあ〜?」 七海は首を傾げた。何言ってんのかなあこの人。 すかさず手を挙げて聞いてみる。「先生、分かりやすく説明するとどういうことですか」

 

先生は分かりやすく説明してくれた 「えーとだなあ、つまり光は秒速30万キロで飛ぶんや。地球の円周は赤道上4万キロやから、光は一秒間に地球7周半できるぐらい早いっちゅうことや」 「へえ〜」 七海はそこそこ理解した。最初からそう言えばいいのに。

 

地球7周半かあ、てことは光に乗ってスッ飛んでいけば達也のところまで一瞬で行けるじゃん。七海は先生の話しを聞くのを一旦止めボーフレンドである達也のことを考え始めた。達也とはバイト先で初めて出会った。学年は同い年だったけど、達也は三月生まれの早生まれだったから私の方が一歳だけ年上だった。私は一般的な公立の商業高校に通っていて、達也は名門の私立高校に通っていた。

 

 

七海は達也と友達付き合いを初めて間も無く、なんとなく予想してた通りに、達也に向かって真っ直ぐな恋に落ちることになった。童顔な見た目のくせして大人びた達也の喋り方は魅力的なギャップであり、そのギャップは達也を賢くカッコ良い男の子に見せるのであった。自分の予想と反したのは、自分でも思っていた以上に達也に深く惚れ込んでしまったことだった。文字通り理性が吹っ飛ぶような燃えるような恋だった。こんな気持ちになったのは初めてだった。結婚したいと素直に思ったし、達也の子供が欲しいと思った。

 

なのに、私たちの卒業が迫った頃、達也は東京の専門学校に通いたいと言い出した。てっきり地元に残ってくれるものだと思っていたから横やりに脇腹を刺されるような激しいショックに見舞われた。どうしよう、離れ離れになってしまうじゃん。専門なら近くにもあるよと私は達也を必死に止めた。でも結局達也は行ってしまった。 「俺は東京じゃなきゃダメなんだ」そんなことを言って。「え、東京じゃなきゃダメっておかしくない?」そう言ったけど意味はなかった。

 

でも、それでも七海は達也を信じることにした。 「俺達なら、遠距離でもやっていける」達也がそう言ってくれたから。達也がそう言ってくれるなら私たちは大丈夫だ。七海はそう思うことにした。達也の言葉を信じ、そして達也の後ろ姿を笑顔で見送った。しかし、実際のところ、やっぱり現実はそんなに甘くはなかった。世間一般的には遠距離恋愛は続かないという科学的な論拠があり、いくら毎日電話やメールをしていたって、単純接触効果が成し得る対人関係の原則はやっぱり遠距離では通用しなかったわけだ。

 

二人の遠距離恋愛が始まって概ね二ヶ月ぐらいが経過した頃、毎日のようにやり取りをしていた達也からのLINEの返信が滞るようになった。なかなか既読がつかなくなり、既読がついてるのに返信が来なくなり、既読がついてるのに達也はSNSを更新した。 重たい女だと思われるのは嫌だったけど、いてもたってもいられなくなった。気がつけば重たいメッセージを書いてしまう。そして秒速30万キロの速度で達也の元に、自分の愛をめい一杯詰め込んだメッセージを送信した。「届け」と願いを込めて送信した。んで、後になって自分が送信した言葉の数々を見直して後悔した。自分が選択した無数の言葉達の一部、あるいは全部は、全くもって秒速30万キロでかっ飛ばす言葉ではなかった。言葉には伝えるのに適した速度というものがある。

 

それでも七海の心は達也との距離が疎遠になるたびに加速していった。そのうちにこんな気持ちは音速も光速も超えてしまうんじゃないかと思った。このままじゃ、日常生活に支障をきたすほどだった。私生活にブレーキがかかる恋は悪夢だ。だから、悪夢から覚めるためにも、達也に今、会う必要があった。思い立ったときには七海は行動を始めた。全てのスケジュールを一切無視してありったけのお金と時間を作って達也に会いに行ったのだ。

 

新幹線に乗って東京へ。久しぶりに会う達也の目つきは、昔よりもギラギラして見えた。達也は終始無愛想を崩さず、何故だかろくに口も聞いてくれなかった。不穏な空気のまま一日が過ぎる頃に気がついた。七海と達也の間には、すでに関係は存在しなかった。別れ際、七海は最後の力を振り絞って、泣きそうになりながら声を出した「今日泊めてよ」「散らかってるからダメだ」 「いいよ気にしないよ」「でもダメだ、ゴメンな」

 

その日の帰り道、七海はフラれた。 「ごめん、お前に悪い点は何一つない、でももう別れよう」達也からのLINEは驚くほどに唐突で無機質だった。私に悪い点は何一つない、なんて酷い言い方するんだろう? 秒速30万キロで放たれた達也からの言葉は、七海の胸を深く回復不能なほどに貫いた。

 

嘘ばっかじゃん。七海の恋は、終わった。