不幸な偶然


初めての海外旅行の前夜、和子は極めてナーバスな状態に陥っていた。明日は早起きしなきゃいけないっていうのに全く寝付けない。布団をかぶって目を瞑ってジタバタ寝返りを繰り返す。最初のうちは羊を数えたり幸福な妄想に励んだり色々試したけれど全然うまくいかない、眠れない。いつの間にか何をする気も失せて、いよいよ目を瞑るしか、することがなくなってしまった。頭の中を駆け巡っているのは、過ぎ行く時間の流れに比例して減って行く自分の睡眠時間一秒一秒だった。


我慢の限界がきて、こんな時間に電話をかけるのは非常識だとは思いつつリサに電話をかけてみた。「こんな時間にごめんね」と言えば彼女は許してくれるだろうと判断したのだ。でも、もちろん彼女は電話には出てくれない。もう寝ているのだ。そりゃそうよねと思いつつ、もう一回だけ電話をかけてみた。やっぱり出てくれなくて、それ以上しつこくかけるのはやめた。買ったばかりのiPhoneXを枕元に放り投げて三度布団の中で目を瞑る。あゝどうして自分はこんなにも心配性なのだろう?和子はこういうとき、いつも自分の性格を呪うのであった。旅行前だとか試験前だとか、大切な用事の前はいつも不安ばっか大きくなってしまう。


イギリスまでは成田から北京を経由して行くことになっていた。リサが航空機にお金を使うのは馬鹿らしいと言ったので格安空港を選び直行便を避けた「でもさ、行く途中でなんかあったら困るし直航便にしようよ」と和子は言ったけどリサは聞く耳を持ってくれなかった。リサは良くも悪くもリーダーシップなのである。


リサが旅行先としてイギリスに行ってみたいと強く和子に主張をしたとき、和子はイギリスという国に関して自分が思い出せる限りの全ての記憶を引っ張り出し考えてみた。結論からいえば、イギリスという国そのものに行くことに関しては問題はないと思えた。この前見た旅番組でテレビに映し出されていたロンドンの町並みは街全体がお城みたいで綺麗だったし、水も空気も北京に比べれば綺麗そうに思えたからだ。ただ、そんなことを抜きにしてもユーロッパという世界情勢にはいささか問題があるとも、同時に思うのであった。極めて歪んだ宗教的な思想を振りかざし暴挙に出る人々が多そうだという懸念である


「ヨーロッパって言えば、この前だって大きなテロがあったじゃん、うちらがたまたまテロに巻き込まれないとも限らないから、アメリカとかにしようよ」和子は不安そうに言った。「んー、確かにヨーロッパはテロ多そうだけど、そんなことを言い出したら何もできなくなっちゃうよ」リサの口ぶりは、まるで怖いものがこの世界にはないと言わんばかりだった。「それにアメリカとかに行ったらピストルで撃たれるかもよ、ほらアメリカ人ってピストルが大好きでしょ。隣国のメキシコなんてドラック帝国だしあそこら辺は最悪よ」そんな風にマシンガントークでリサに物申されると、和子はいよいよ思考が停止してしまうのであった。特に反論を思いつけなくて「じゃあイギリスにしようか」と言うと「決まりね!」とリサは嬉しそうに笑った。


イギリス旅行は一週間を予定していた。細かいスケジュールは私に任せてとリサが言ってくれたから和子は彼女の言う通り、細かいスケジュールは任せることにした。自分は自分の身の回りの心配だけしれてばよかった。まあ、とはいえ結局渡航一週間前辺りから準備を始めたのが事の顛末であり齷齪したのは言うまでもない。出発日の数日前に「準備できてる?」とリサに聞かれ、あんまり準備が整ってないことを告げ大いにお説教を食らってしまった。でも和子は心の中ではこんな風に思うのであった。「仕方がないじゃないか、そんなことよりも日に日に高まっていく私の不安心を収めるのに私は必死なんだ」何故なら、実際に和子は、円をポンドに換金したり、保険付きのクレカを契約したりしながら、ありとあらゆる種類のパラノイアに身の内を取り憑かれていた。飛行機は落ちやしなかな?とか、スリには遭いやしないかな?とか、テロには遭いやしないかな?とか。そして度々全ての作業を中断して、何度も何度も、航空機が墜落する確率や、テロに遭う確率に関しての情報をサファリブラウザで調べていた。


例えば、自分が搭乗する飛行機の副操縦士が、ジャーマンウイングス9525便の副操縦士みたいな人間であったらどうしようと和子は夜な夜な身を震わせていた。そんな出来事が、ジャーマンウイングス9525便墜落事故のような出来事が、万が一にも自分に身に降りかかる恐怖に怯えていた。2015年3月24日、アンドレアス・ルビッツ ーというこの世界で最も凶悪で無慈悲な航空飛行士は、航空機を故意にフランス南東に墜落させ乗員乗客150名の命を一瞬にして(自分の命と一緒に)この世界から抹消した。木っ端微塵に粉砕された一人ひとりの未来に自分の人生を重ね合わせると和子は自分の心がぐちゃぐちゃに乱れていく感覚に陥った。リサが言うように「そんなことを言い出したら何もできなくなっちゃう」なんて言葉は確かにその通りなのかもしれないけれど、和子はどうしてもそんなことを考えてしまう性分なのだ。


そして結局一睡も眠れずに朝を迎えた。早朝になり寝坊せずに起きてきたリサが電話を寄越してきて、朝が来たことに気が付いた。「もしもし、寝てるよあんな時間」リサはいのいちばんでそう切り出した。「ごめんね、あんな時間に電話かけて」「またつまらない妄想してて眠れなかった?」「まあね」和子は言った「飛行機でぐっすり眠りな、着いたら起こしてあげる」そう言ってリサは電話を切った。リサはむくむく布団を出て準備を始めるのであった。不幸な偶然に、遭遇してしまわないことを願いながら。