幸福な一日

 

その日、菜々はカーテンの隙間から差し込まれた光に照らされ、心地よく目を覚ました。寝起きの気だるさが全くない透き通るような朝だった。窓を開けると真っ直ぐな太陽の光が視界に飛び込んできて、眩しさで手の平を空に伸ばし目を細めた。スーッと空気を吸い込んでハーっと吐き出すと、自然に口角は上がり幸福な気持ちを感じることができた。「こういう朝って本当に素敵」涼しげな風をその身に受けながら菜々は心からそう思った。その日は、菜々にとって幸福な一日になるはずだった。

 

朝の準備をテキパキと終わらせ家を出る。いつもならこんな高いヒールは履かないけどなと思いながら、8センチあるヒールを選んだ。今日はお化粧も頑張ったし、それに最近モデルウォークをヒッソリ意識して歩いていた甲斐あって、この前エミから「モデルさんみたいに綺麗に歩くね」と言われて嬉しかった。とんがったヒールのコツコツとした音は、なんだか自分の気持ちを少しだけ上げてくれるような不思議な音がするんだ。

 

地下鉄の窓ガラスに映った自分の黒い影は、いつもなら目を背けたくなるくらい嫌いだけど、今日は目鼻立ちの整った美女に見えた。すれ違う女達を値踏みしてみれば、私の方が綺麗に思えて優越感が湧き上がってくる。駅で電車を降りた時には、すれ違う若い男と目が合った。職人風のその男は、ガラの悪い髪型をして真っ直ぐに菜々を見つめていた。目が合った瞬間、男の細くツリ上がった目が下に落ちた、男は奈々の視線に照れたのだ。当然のことながら、そのことを菜々は一瞬のうちに理解することができた。悪い気がしなくてちょっとだけニヤついてしまう。良い女って思わせてくれる男は悪くない、全然タイプじゃないのに少し気になってしまう。

 

その日、仕事を終える間際には同僚の岩井から声をかけられた。「今日はお疲れ、なんかお腹減っちゃったね」「そうですね」ニヤけた顔の岩井に、奈々は作り笑いで応戦した。「いつも仕事終わったら何してるの?」「はい?」奈々は岩井を見た。「いや、彼氏と夜ご飯かなあみたいな」岩井は口笛でも吹くみたいに言った。岩井の内側から発せられる不自然な好意を奈々はしっかりと受け止め足早にオフィスを飛び出した。「いや、特に何もしません。お疲れ様です」岩井がそれ以上何かを言いたそうにしていたけれど、構うものかと思った。この人とは仲良くしなくても問題は起こらない、仕事上。一瞬のうちに頭の中で正しい計算式が作り出された。女っていうのは男が思う以上に打算的である。それに、今日はこの後はエミとの約束があるんだ。

 

新宿でエミと落ち合ってそのまま日比谷線で六本木へ。「今日は金曜日だし、六本木ならタクシーで帰っても一万円も行かないから問題ないよね?」エミは悪戯な微笑みで奈々を見た。彼女の綺麗に整えられた歯並びと、笑うと頰の右側に凹むエクボは凄まじく魅力的だ。「そうね」と菜々も同意して笑った。二人とも、週末の夜の、これからはじまるミッドナイトを心待ちにしていたのだ。

 

それにしても、六本木にはカッコイイ男がいっぱいいる。煌々とさんざめく夜の街を見渡しながら奈々は思った。スーツを上手に着こなす紳士、アイドルみたいに綺麗な顔をした若者、街を歩いてるだけで目があっちへこっちへ泳いでしまう。「どうして六本木には、カッコイイ男がいっぱいいるの?」菜々は言った。「金曜日の夜だもん、誰でもカッコ良く見えるものよ」エミの言葉はいつも達観したような口ぶりだ。「そういうものかなあ」

 

エミが予約してくれたお店は、内装が綺麗なお洒落なバーだった。外観は古民家みたいに見えるのに、中々センスが良さそうだ。カウンター席は八つ、テーブル席は二つだけ、こぢんまりとした雰囲気を奈々は気に入った。二人が入店したときは、品の良さそうな男女がひと組いるだけで、店内にはゆったりとした時間が流れていた。「良いお店ね」奈々がいうと「そうみたいね」とエミは言った。「意味わかんない洋楽がかかってないのがいい」そう言うエミの意見には激しく同意をした。

 

カウンターの奥では、蝶ネクタイを過不足なく装着した中年のバーテンダーが無言で淡々と業務を遂行していた。男は静かな深い声域で声を発し、その魅力的な声に見合うだけの知性を兼ね備えているように見えた。カウンター席に座った二人は、最初のうちは、バーテンダーを交え三人で世間話をした。その会話自体は非常に楽しく実りある会話だったように思える。バーテンダーは二人の話しに真剣に耳を傾け、どちらかが質問を投げかけたときだけ会話に交じり回答を二人へ差し出した。そのうちに、二人がガールズトークに花を咲かせはじめたのを察すると、バーテンダーは自然に会話の流れから退場し、また黙々と仕事に戻るのであった。

 

それから、二人はどのくらいの時間語り合っていたのだろう。恋愛の話や仕事の話をした、将来の話もした。いろいろな話をした。三杯目のレッドアイは、いつのまにかほとんど空になっていた。多分二時間くらいは経っていた思う、そんな時だった。店のドアが開く音が聞こえ、背の高い男二人組が店に入ってきた。奈々は、彼らが発するオーラを横目に捉えた。二人はこの店の常連らしく、バーテンダーとアイコンタクトをとると、慣れた動きでテーブル席に座った。奈々はチラッと男たちを見た。彼らは、ビックリするくらいかっこいい男の子二人組だった。「ねえエミ」と声をかけて「あっちを見て」とそそのかす。彼らを見たエミも「かっこいいね」とホッと顔が明るくなった。「金曜日の夜だからかな?」と聞くと「あれくらい綺麗な男なら月曜日の朝でもカッコよく見えるね」とエミは笑った。私たちの意思は、疎通したようだった。

 

テーブル席の向かい側にいる彼は、帽子を被り黒い無地のロングTシャツを着ていた。リングのシルバーネックレスは黒い洋服にぴったり寄り添うようにキラキラと光っていて、彼が放つイケメンオーラをいっそう強く装飾していた。テーブル席の手前に座っている彼は、細身で頭の形が綺麗で、茶色い色に染まった髪の毛は女性のようにツヤツヤとしていてイイ匂いがしそうだった。二人とも見事な目鼻立ちで、その上一つ一つの顔のパーツがバランスよく顔の各部位に配置されていて、もう申し分ない美男子だった。一つだけ欠点を挙げるとすれば、いやらしい妄想の相手にはできそうにないことぐらいだった。

 

「あっちから近づいてきてくれればいいね」なんて二人はひそひそ声ではしゃいだ。「こっちが視線をもっと送れば気がついてくれるかも?」なんて細やかな計画だって練り始めた。二人とも、遊びのように見えて案外本気だった。でも、結論から言えばその作戦が功を奏すことはなかった。もっと言えば、その作戦は実行されることもなかった。彼らには、連れがいたのだ。ほんの十数分経った後、遅れて到着した二人組の女が店に入ってきた。二人とも部屋着のようなラフな格好でスニーカーを履いていた。女達はそれぞれの男の隣に腰掛け4人でお喋りを始めた。彼女たちも、男たちに負けないくらい綺麗な女だった。奈々は少しでも期待した自分を馬鹿らしく思った。

 

「そろそろ、いこっか?」しばらく経ってそう最初に言い出したのは奈々からだった。「そうだね」エミも同意して席を立った。お会計済ませて立ち上がっとき、お手洗いから戻ってきたと思われる四人組の中の女の1人と相対した。女は「あ、どうぞ」と奈々達に通り道を譲るように横に逸れて微笑んだ。奈々は一瞬立ち止まり、女を見上げた。顔の小さな色白の美しい女だった。「ありがとうございます」そう言ってそそくさと店を出た。

 

エミと駅で別れ、なんだか疲れを感じながら電車に乗り込んだ。不快なモヤモヤが心に湧き上がっていることに奈々はその時気が付かいた。ハッと顔を上げ、つり革を掴む手を少しだけ強くした。夜の街に反射した車窓に映る自分と目が合った。目の前には、大嫌いな自分の姿があった。ほうれい線が目立つ頰と、への字に曲がった口角、取れかけたアイプチの2重のラインが醜かった。目を背けるように周りを見た。奥の方で笑い合うカップルたち、ヘッドフォンで音楽を聞く男、疲れた顔のサラリーマン、学生。ふとヘッドフォンの男と一瞬目が合った。男はサッと横に目をそらすとウォークマンに視線を戻した。