この世界から分離された全く別の時空に並行して存在する世界

 

「朝起こしてくれなかったから大事な会議遅刻しちゃったよ」もごもごエビピラフを食べながら夫は突然切り出した。今朝私が寝坊をしたことを、彼は今思い出して文句を言っているのだ。「子供じゃないんだから自分で目覚まし時計ぐらいかければいいじゃない、私だって朝起きれないことだってあるわよ」私は言った。「そんなこと言ったって朝起こすのは君の仕事だろ、それに俺は昨晩、明日は早めに起こしてくれと頼んだんだじゃないか」「まあ、それはそうだけど」私は口ごもる。反射的に反論をまくし立てたい気持ちを押し殺しているのだ。「まあ、いいけどさ。今度からはしっかり頼むよ」夫は言った。「はいはい」私は肩をすくめる、そしてそれ以上言い返すのを我慢する。子供みたいな喧嘩は深刻になる前に譲ろう、私はそういう性格なのだ。

「これ、とても美味しいわね」私は話題を皿の上のエビピラフに変えることにした。豊富な食べ物の話題は人間関係を良い方向に導くためには大切な要素の一つだ。「だろ?うちの近くにこんなお店があるなんて俺も最近知ったんだよ、君に教えたいと思ってね」夫の表情はパッと明るくなった、たった今の不機嫌がなかったみたいに。元々夫はネガティブな空気を引きずらない性格の持ち主だけれど、殊更グルメが大好物なのである。出来の良い料理を私が振る舞う度に「美味しいものを食べると嫌なことなんてすぐ忘れられるよな」と夫は言ってくれる。それだからいつの間にか私は料理が好きになった。自分が作った料理を美味しいそうに食べてくれる人と毎日一緒に暮らしていれば、嫌でも料理を好きになるものだ。もし夫と出会っていなければ、私は好き好んで料理をするようにはなっていなかっただろう。これまでだって何度か美味しい食材に夫婦間の諍いを救っていただいたことがある。

でも残念ながら、彼の食に対する欲望は私の手の中では収まらない。ひと月に一度か、時にはもっと多い頻度で「お腹が空いた。何か食いに行かないか?」と夫は私を深夜の夜食に誘うのだ。「夜ご飯食べたじゃん。もう寝たほうがいいよ」と私が言って宥めても夫は私の意見には従わない。「眠くないし、何か食べに行きたい」「でも今食べたら太るし、きっと明日寝坊するし、さっさと眠ってしまって明日美味しい朝ごはんを沢山食べた方が得よ」と私が言うと夫は少し不満げになった。「明日は寝坊してもいい日だし、人間は損得では動けないよ、インセンティブが人を動かすんだよ」「なるほどね」私は両ひじを鋭角に曲げ両手を腰に置いて考えてみる。夫の言い分に一々納得できなかったからだ。”インセンティブが人を動かす”夫は確かにそう言った。インセンティブなんて言葉の意味は知っている。人の意欲を引き出すために外部から与える刺激という意味だ。でも、その言葉は目の前のシチュエーションには明らかに場違いで不釣り合いな言葉に感じられた。「正論ね」少し考えてから私は言う「でも、何があなたの食に対するインセンティブを刺激してるっていうの」「これはインセンティブではないよ、単なる強い食欲だよ」夫は答えた。私は呆れて笑った。きっと夫は普段からその言葉を自分の心の中に収めているのだろう。自己を主張するタイミングで言葉達が銘々勝手に飛び出してきたのだ。人間はいつも思っている言葉を口に出してしまうものだから。笑かされて私はノロノロ支度をはじめる。私がついて行くことを決めると夫も満足したように支度をはじめる。私はいつもそんな流れで夫に付き合ってしまうのだった。もちろん、モリモリ食べ物を食べるのは夫だけだけど。

戸建のガレージからカムリを発進させる。「僕が運転するよ」と夫は言って車のハンドル側へ回り込んだ。「当たり前でしょ」と言って私は夫に鍵を渡した。ハイブリッド車の静かなエンジン音が小さく震える。車内ではアクセルの部分に取り付けた青色のネオンのライトが驚くほどに車内を装飾していた。スピードメーターの針も格好をつけて忙しくその身を振っている。シガーソケットに差し込まれたアロマディフューザーからはウッドの深い香りが醸しだされている。口を抑えて大きなあくびをすると、つられて夫もあくびをした。「ウッドの香りよ」と私が言うと「これが原因か」と夫は言った。

トヨタの販売店でカムリを購入するとき、夫は「名義は僕の名前でいいよ、ローンは二人で払っていこう」と言ってくれたけど、私は勿論反対した。「私は通勤で毎日車を使うけど、あなたは普段車を乗らないでしょ、だからあなたが負担を背負うことはないわ」「じゃあ、せめてローンは一緒に払おうよ。僕も車を運転できるし、二人で出かけることもあるだろ。3:7の比率でいいからさ、一緒に払っていこう」私は夫の提案に納得した。「あなたがそう言うなら」と。「じゃあ、車はあなたが選んでいいわよ、私はどれでもいいから」私がそう言うと「お、」っと夫は勢いづいて車を見定め始めた。接客してくれていたディーラーさんも真剣だった。そして、最終的に夫が選んでくれたのがカリムだった。

「着いたよ」しばらくすると夫が私の肩を叩いた。時計を見ると時刻は24:35分になっていた。家を出てから大体30分程度が経過していた。いつのまにか私は眠ってしまってたみたいだった。目が覚めた時、車内ではQueenbohemian rhapsodyが流れていた。歌の歌詞は “Put a gun against his head, Pulled my trigger, now he’s dead, Mama, life had just begun But now I’ve gone and thrown it all away “ (あいつの頭に銃口を突きつけ引き金を引いたらやつは死んだよ。ママ たった今人生が始まったばかりなのに 僕はもう駄目にしてしまった) と歌っていた。「この歌のどこがいいの?」私は首を半回転させて夫を見た。「わからないな」と夫は答えた。「ふうん」と私が言うと「メロディがいいんじゃないか」ともう一度夫は答えた。車を降りるとアットホームな外観をしたカフェのような建物が目の前に現れた。お店の看板と思わしき黒板にはローマ字で「tekrar」と書かれていた。トルコの言葉で、日本語に訳すと「再び」を意味する。看板にそう書いてあった。その下にはドリンクメニューが書かれていた。ホットコーヒー350円、アイスティー300円、レモンティー400円、オレンジジュース350円、アップルジュース350円。「ふむふむ」私は顎に手を置いて少しだけ前屈みにしゃがんでメニューを眺めた。「入ろう」夫が言ってドアノブを引く、私もそのあとに続く。店内に入るとカウンターの脇の暖簾をかき分け「こんばんわ、お好きな席へどうぞ」と若い女が私たちを出迎えてくれた。私たちは軽く会釈をしてすぐ近くのテーブル席に腰掛ける。「こんな夜中にどうしてあんな子が働いているのかしらね」私は夫にそっと囁いた、彼女には決して聞こえないようにそっと。「今時、別に普通なんじゃないか」夫は私の心配など全くの的外れであると言わんばかりな表情で言った。その表情を日本語で形容するならば「何か問題でも?」英語で形容するならば”something wrong?” トルコ語で表現するならどう言えばいいんだろう?私は少し悩んで考えるのをやめた。

夫はメニューに手を伸ばし、3ページしかないメニューの1ページの大半を占めるエビピラフを指差して言った「そうそう、これが美味しいんだよ」私も一緒にメニューを覗き込む。そのエビピラフは確かに美味しそうに見えた。お腹なんて減ってないのに食欲を感じた。乾きを感じた。「美味しそうだろ?」と聞かれ私は頷く。「じゃあ頼もうか」と聞かれ私は頷く。夫はさっきの女を呼び寄せて「エビピラフ二つで」と注文した。「エビピラフ二つですね、お待ちくださいませ」女は注文確認してのれんの奥に消えていった。「残したらあなた食べてね」と私が言うと「わかったよ」と夫は言った。でも、しばらくして私の心配は不要だということを知った。なぜなら、運ばれてきたエビピラフは思っていたよりも遥かに美味しかったからだ。深夜という時間軸は失念しお腹が減っていないという事実はそのエビピラフの前では通用しなかった。香ばしい匂いが空腹を加速させ、一口食べたらもっと空腹が加速した。エビの蒸し汁で炊き上げられたコクと旨味が口の中で爆発するように広がった。口の中で打ち上げ花火のように爆発を繰り返すピラフの味を噛み締めながら私は考える。こんな真夜中に食べ物を食べて幸福感を感じたことなんて未だかつてあったかしら?いや、むしろこれは真夜中に食べているからこそ、味わえるものなのではないだろうか。真夜中という時間帯がエビピラフに魔法をかけ、エビピラフの魔法は私に時間という概念を喪失させたのだ。失われた時間という概念を取り戻そうとしても中々上手くいかない。それはまるで局部麻酔を打たれた身体的な箇所に似ている。つねってもくすぐっても痒みも痛みも感じることができない。そんな感覚に似ている。麻痺から復帰するにためには辛抱強く時を待つしかないのだ、思い描いたチャンスを辛抱強く待つみたいに、必死にこらえながら忍耐強く待つしかないのだ。

「こんな場所にお店があることをよく知っていたわね」私は気を取り直して夫に聞いた。夫は「最近ふらっと散歩しながら近所を散歩するんだよ、街には面白い場所や物があふれているからね」と言った「あらそう?」青天の霹靂だった、散歩する趣味がこの人にあったなんて初耳だ。「あなたって、家から駅まで徒歩10分未満の距離でもバスを使うくらい歩かない人だったのに」私が言うと「習慣を変えたんだよ」と両手を広げて夫は言った。私は眉を潜める、大仰な態度が気になった。「それってもしかしてフォレスト・ウィテカーを真似ているつもり?」私が言うと「よくわかったね」と夫は言った。

私たちは昨晩、サウスポーという映画を見ていたのだ。アントワーン・フークア監督のボクシング映画だった。主演を演じていたのはジェイクギレンホールで、誰もが認める無敗の世界ライトヘビー級王者のビリー・‘ザ・グレート’・ホープの役を演じていた。ビリーは無敵のボクサーで、怒りをエネルギーに点火する過激なスタイルで観衆の喝采と勝利のKOを積み上げていた。しかし、ある日その怒りが引き金となり、最愛の妻の死を招いてしまう。悲しみに暮れ自暴自棄な生活を送るビリーは、ボクシングにも力が入らず世界チャンピオンの称号を失い、信頼していた仲間、そして娘まで失ってしまう。地位と名声と金と、美しい妻と愛おしい家族に囲まれた、大豪邸での優雅な暮らしから一変、ビリーは人生のどん底に突き落とされる。悲しみに暮れる生活の中で、それでも再起を奮闘するビリーと、そんなビリーに手を差し伸べる新しいトレーナー、フォレスト・ウィテカー演じるティックとの二人の成長の物語を映画では語っていた。

映画の中でビリーがティックに「ビールでも奢ろうか?」と誘うシーンがある。「酒は飲まないんだ」とティックはビリーからの誘いを断ったのだが、後日ビリーが入ったバーでティックは一人で酒を飲んでいた。「酒は飲まないんじゃないのか?」と聞くビリーに返したティックの言葉が「習慣を変えたのさ」だった。夫はそのシーンのフォレストウィテカーを真似したのだ。「細かいところまでよく見てる、君の才能だよ」夫は感心したように言ったけど私は首を振った。「あなたのモノマネが上手なだけよ」

「あ、そういえば、この前散歩しているときに不思議な体験をしたんだ」夫は笑みを崩さぬまま唐突に切り出した、何か大切なことを別れ際に突然思い出した人みたいに。「どんな?」銀色のスプーンでエビピラフをすくいながら私は聞いた「パラレルワールドに迷い込んだみたいなんだ」「なんですって?」私はエビピラフをすくう手を止めて顔を上げた「パラレルワールドだよ、ある世界(つまりは僕らが今生きているこの世界)から分離された全く別の時空に並行して存在する世界のこと」「パラレルワールドという言葉の意味は知っているわ」「でも信じられない?」「ええ、信じられないわね」私は言った。夫は困ったようにおでこに掌を当てた。「そうだよなあ、でも実際に僕がパラレルワールドに迷い込んでしまったことは事実なんだよな」「何を根拠に言ってるの?」「根拠はないんだ、でも分かるんだ、その事実が僕にはただわかるんだ」夫は言った。「話してみてよ、最初から」私が言うと、夫は語り出した。

「一昨日、つまり先週の土曜日、僕は仕事帰りにフラッと寄り道をして街を散歩してみたんだ。三丁目の奥に道が二つに分かれたY字路があるだろう?僕はいつも駅から家に帰る道中、そのY字路を左の方向へ向かって家へ戻るのだけれど、僕はその日Y字路の右側を進んでみることにしたんだ。Y字路の右側を進んだ道なりは長い一本道になっていて、緩やかな下り坂が続いていたから、その先に何が待っているのかは足取りを進めるまで全く分からなかったんだけど、下り坂を下ってみると、奥には十字路の交差点があった。行き交う車は少なくて、人通りもなく、辺りに見える人工的なものと言えば、コンクリートで埋められた灰色の道路と、道路に描かれた破線の白線、それから90度に折れ曲がった曲がり角のところに、頑丈に植えつけられているカーブミラーだけだった。僕は立ち止まって東西南北どちらへ歩みを進めようか考えたんだ。急ぎの用事はなかったし、どちらに行こうか考えるには十分なほど静かな十字路だったから、しばらくその場で考えていた。そして僕は決めたんだ、北へ歩いてみようと。南でも西でも東でもなく、”北”に歩くことを僕は決めた。その決断はほとんど無意識が選んだ選択だったけど、なんとなく選んだものではない。どれだけ考える時間を与えられようが、与えられまいが、僕は必ず北に行くことを選んでいたと言える。それは、小さい小さいレベルで自分の心の根っこに根付いている行動指針のようなもだったんだと思う。」

「北に歩みを進めると住宅街が広がっていた。文字通り閑静な住宅街だった。静まり返った住宅街はさっきの静かな十字路よりももっと静かだった。スズメの鳴き声や風の音がよく聞こえた、ある種不気味さにも近い静けさをその一帯全体が帯びていた。二階建ての建売住宅が規則的な感覚で立ち並び、ガレージに止められている車の多くは真ん中よりも少し下のランクの高級車だった。中流階級地域といった印象を持った。前方からやってきた自転車に乗った子供達は、各々が蛇行運転しながら後ろを向いたり横を向いたりしながら器用に会話を展開していた。全員がカラフルなヘルメットをかぶり、カラフルなマウンテンバイクに乗っていた。自転車のカゴには斜め掛けのカバンや小さめのリュックサックが乱暴に放り込まれていて、ハンドルを切るたびにカバンは左右に揺れていた。すれ違う時にそのカバンの中身を覗き込んで見ると、中には溢れんばかりの遊戯王カードが詰め込まれていた。数種類のデッキに分けられ、カード一枚一枚に個性豊かなスリーブが被せられていた。カバンのチャックは閉ざされていたけれど、僕は彼らのカバンの中身を見ることができた、鮮明な映像として。透視能力として。僕は彼らとすれ違うまで彼らの一挙手一投足を見ていた。数台の自転車のうちの一台がギアを変えて重たくて早いスピードのモードに切り替えた音も聞き逃さなかった。彼らは自分達のおしゃべりに夢中になっていて、僕の存在には気がついていないようだったけど、僕は彼らの存在に気がついていた。」

「自転車達が行ってしまうと、僕はまた辺りを見渡しながら歩みを進めた。しばらくすると住宅街はひらけた街並みに変わった。いつのまにか僕の目の前の景色から家々は消えていた。開けた二車線の大通りと駅に直結している巨大モールがこれ見よがしに現れた。行き交う人々の数も増えた。すれ違う人々は都会的で若々しくて忙しそうな表情をしていた。足早に過ぎ去って行っく人々の波の中で、僕は不快感のようなものを感じることになった。正直に言ってどうしてかは分からない。人混みなんて慣れているのに、行き交う人々が増えるたびに僕の両足の歩みは重たくなっていくような気がした。その不快感は生理的なもののようにも思えたし、単なる苦手意識のようなものとも思われたけど、とにかく不愉快で居心地が悪かった。両足の重みは、一歩足取りを前へ進めるたびに、一人の人間とすれ違うたびに、時を刻むごとに悪化していった。僕はモールの中のベンチに倒れこむように座り込んだ、前かがみになって片手をベンチについて胸をさすって大きく深呼吸をした。心拍が上がり呼吸が乱れ心不全を引き起こしそうになった。頭痛も激しくなってきって周りの音の全てが強烈なノイズと化して頭の中に流れ込んできた。僕は両目をギュッと瞑って両手を耳に押し当てて世界を抹消しようと試みた。目の前の世界がほとんど消えると、必然的にそこにはほとんど沈黙と暗闇が広がっていた。微かに残る世界の残像は、目の前を通り過ぎていく人々の足音(特にハイヒールのコツコツとした音)と網膜に感じるわずかな光だけだった。僕は広がる暗闇の中で考えていた。後少しだけ外の世界の輝度が減って、うるさいハイヒールの足音が消えてくれればいいのにと。そうすることさえできれば、全てが良くなるのにと。」

「でも残念ながら、外の世界の明るさもコツコツと打ち出されるハイヒールの音も消えることはなかった。両目を少しだけ開けて世界を取り戻してみる。人々の行き交う足元は右から左へ、左から右へと流れていた。ブーツ、スニーカー、革靴、各々の横顔が現れては消えて行った。僕は行き交う流れの中にハイヒールを探した。ハイヒールの音の正体を探した。そして謙遜の中に一足のハイヒールを見いだすことができた。その一足は僕の目の前からいつまでたっても消えない例の足元であった。二つの足は規則的に正しい動きで真っ直ぐにこちらに向かっていた。僕がハイヒールの正体に気がつくと、ハイヒールの歩みが止まった。同時に僕の頭の中で鳴り響くコツコツとした足音も鳴り止んだ。僕は顔を上げた。恐る恐る上を向いた。顔を上げて見ると、そこには肩幅が広くて背の高い白人の女が立っていた。黒いハイヒールの上には黒のサマードレスを着ていた。髪の毛は赤くて目は青かった。1997年頃のケイトウィンスレッドの面影を感じさせる美しい女性だった。」

「女は僕の顔面を真っ直ぐに見ていた。その視線は疑心と哀れみに満ちていた。瞳が発する意思は鋼鉄の盾をも貫く鋭さで僕に突きつけていた。僕は悟った。僕はこの世界の住人ではないのだと分かった。僕には彼女が何を言わんとしているのか理解するこができた。女は”早く立ち去れ”と言っていた。”早く足を上げてこの場所から離れなさい、今しかないわ”と言っていた。僕は腰を上げて立ち上がり、走り始めた。もう痛みも気分の悪さもなくなっていた。あるのは恐怖だけだった。早く自分がいるべき場所に行かなければ。そんな思いだけだった。僕の足取りは毎秒早くなっていった。突風のように足は回転を早め、来た道を反対側へ僕は走った。十字路にたどり着いた時には、全身滝のように汗を書いていた。十字路を越えると心の底から安堵した。両膝に手をついて肩で呼吸をした。そして僕は後ろを振り返った。そこには、さっきまで続いていた道は存在しなかった。