運命には抗えないのだということを学んだ田中さん

 

ある日の水曜日の朝のことです。田中さんはいつものように会社に出社して自分のデスクにつきました。朝はいつも早起きな田中さん、だから出社するのはいつも一番乗りです。田中さんの次に出社してくるのは大概いつも社長さん、「いつも早いね〜」って言ってくれるけど別に張り切ってるわけじゃありません。早く起きちゃうだけなんです。 「どうやって早起きしてるの?やっぱ夜寝るのが早いんだ?」って聞かれたときは少し答えるのに困りました。確かに私は夜眠るのが早いけれど、夜早く寝れば朝早く起きられるという訳ではなく、どっちかっていうと朝早く起きるから夜早く寝られるんだけどなとか思うのです。でもそんな理屈っぽいこと言って嫌われるのは本望じゃないので「夜寝るのは早いですね〜」ってつまんない答えしかできない田中さんなのでした。

 

田中さんは仕事を始める前に暖かいコーヒーを一杯コップに注いで心を落ち着かせるのが好きです。朝のオフィスはとても静かですし、これから始まる慌ただしく忙しい一日のことを思えば、朝くらいホッとさせておくれよと思うのです。そういえば、ここら辺で一番美味しい珈琲が飲めるお店はどこだろうな?スターバックスコーヒーは大して美味しくない上に高価なのに、何故あんなに人気なんだろう、ドトールコーヒーは安いけどパッとしないよね、ツタヤのカードが使えたっけ?覚えてないや。サンマルクは中々センスがいいと思うんだけれどここら辺にないんだよな、やっぱりコメダ珈琲が一番じゃんね。一杯飲むとホッと心が落ち着くしコメダって名前がいかにも気取ってなくていい、色気がないちょっとカッコいい青年が働いているのも良さげだ。

 

そんな風にボーッとしながら時計の針が定時に近づき皆さんが出勤してくれば、田中さんは仕事スイッチをONにして無駄な考え事をするのをやめます。いけないいけない、スイッチを切り替えねばと思うのです。鞄から取り出したthinkpadを広げてWindowsを立ち上げ、自分の今日のスケジュールを確認した後に、チームの皆んなの今日の予定もクラウド上で確認、メールチェックをして資料の作成にも余念がありません。田中さんは一度スイッチが切り替わってしまえば猛烈な集中力を発揮して皆んなのために働くのです。 

 

しかし、なんだか今朝の田中さんはエンジンのかかりが悪いようです。どうにも集中できん。なんでだろう、田中さんは考えました、一生懸命考えました、そして気がつきました。そうだ、さっきから私の頭上を飛び回っている蚊がウザいんだ。どこからともなく現れた一匹の蚊が、ブンブンx2 田中さんの耳元をさっきから飛んでいるのです。いくら追い払ってもすぐに田中さんの周りに帰ってくるのです。いい加減やかましいと思った田中さんは、蚊が自分のデスクの上をテクテク歩ってきたときに、とうとうバシッ!っとやってしまおうかと思いました。ティッシュを手に取り右腕を振りかざす準備をはじめました。

 

でもその時、田中さんはふと思ったのです。そういえば、仏教の戒律の中に不殺生というのがあったよな、虫だって生きているのではないだろうか。例えば、この蚊は今私のデスクの上を偉そうにテクテク歩いていて、さっき私はこの蚊に少し血を吸われて、私は今正直とてもムカついているわけだけれど、この蚊にだってもしかしたら家族が居て、この蚊にもちゃんと名前があって、私がこの蚊を殺してしまったら、この蚊のお母さんやこの蚊の旦那様がものすごい悲しんでしまうのではないだろうか。そんな風に考えたら、殺せないじゃないか。なんだかわけがわからなくなった田中さんは、一旦とりあえず右腕という刀を鞘におさめたのでした。

 

田中さんのその選択が功を奏したのか、気がつけばいつのまにか蚊も田中さんの周りをブンブンするのをやめ、どこかに消えてしまったようで、蚊のことなど忘れたように田中さんは仕事に集中することが出来るようになりました。しかし、事件は確実に起こってしまったのです。田中さんがふとコーヒーに手を伸ばすと、先ほど殺すのをやめた蚊が、いつの間にか私の飲みかけのコーヒーカップの中で溺れ死んでいるじゃありませんか。え、嘘でしょ.. 少しギョッとした田中さんなのでした。

 

そして田中さんはなんとなく「そうか、この蚊は今日死ぬ運命にあったのだ」と思いました。私がバシッ!っとやろうがやるまいが、この蚊は何が何でも今日死ななくてはいけない運命だったのではないだろうか。だから、さっき私がバシッとやらなくても、奴はちゃんと私のコーヒーカップの中で溺れたし、多分きっと私が今朝コーヒーを飲まなくても他の何かが原因でこの蚊は死んでしまっていたのではないだろうか。ちょっと昔にやっていた映画、ファイナルデスティネーションシリーズを思い出すな、逃れられない死の運命に次々とさらされていく若者たちの恐怖を描いたお話し。 田中さんは、蚊の一生から、抗えない運命というものを学んだ気がして、なんだかとても深い気持ちになったのでした。

めでたしめでたし、なのでしょうか。

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